恩師ヴェンゲルは「常に寄り添ってくれた」アーロン・ラムジー、若き日の決断と試練
「サッカーのことは、プレーで語る」。その信念を胸に、アーセナルをはじめとした世界のトップクラブで戦い続けてきた、ウェールズ代表のアーロン・ラムジー。17歳の少年が抱いた夢の軌跡と、今なお彼を突き動かす情熱の源とは。これまでの偉大なキャリアとその原点、サッカー選手としての現在地を、本人の言葉とともに紐解いていく。
※この記事は、2024-25シーズン中に収録されたインタビューの内容を日本語で記事化したものです
リヴァプール不動の左サイドバックとして、いくつものタイトル獲得に貢献してきたアンディ・ロバートソン。自らを“アンダードッグ”と呼ぶその言葉の裏には、少年時代に味わった大きな挫折があった。逆境をいかにして乗り越え、世界最高の舞台にまでたどり着いたのか。インタビューで語る本人の素直な言葉から、サッカー選手としての原点と闘志の源に迫る。
──まずはあなたの原点からお伺いしたいのですが、昔からサッカーに夢中でしたか? サッカー選手になるのがずっと夢だったのでしょうか?
ロバートソン:ええ。家族も友人もみんな知っていますが、いつも裏庭や通りで友達や兄とボールを蹴っていました。夢は常にサッカー選手になることだったと思います。心の底からそうなると信じていたわけではないかもしれませんが、ただ純粋にサッカーというゲームが大好きでした。
いつも試合を観に行き、学校から帰ればすぐにボールを蹴る。学校にいる時間でさえ、ボールや道端の石を蹴っていましたから。もしかしたら、こうなる運命だったのかもしれません。生まれた瞬間からサッカーが大好きで、それは今でもまったく変わりません。
──子どもの頃「自分は周りの友達よりもうまいな」と、ご自身の才能に気づいた瞬間はありましたか?
ロバートソン:イエスでもあり、ノーでもありますね。学校のグラウンドでプレーしていた時、用務員さんが僕にだけ「右足しか使っちゃダメ」とか「ツータッチまで」といったルールを課してきたのを覚えています。ゲームを公平にするための、ちょっとした遊びでした。うまい選手は違うチームに分けられたりもしましたね。
自分が正しい道を歩んでいると確信したのは、7歳でセルティックのプレユースアカデミーに入り、9歳で正式に契約した時です。これほど大きなクラブと9歳で契約できたのですから。そこからは、ひたすら自分の力で成長していくしかありませんでした。先ほども言ったように、常にサッカーと共にありました。プレーするのも、観るのも大好きで、その両方が僕を大きく成長させてくれたんだと思います。
──セルティックのアカデミーに在籍した経験はどのようなもので、どのように終わりを迎えたのでしょうか?
ロバートソン:最初の頃は本当に順調でした。当時、ユースの責任者だったトミー・バーンズは、クラブだけでなく国中から敬愛される素晴らしい人物で、選手としての僕を高く評価してくれていました。
ですがU-15になり、フルタイム契約やU-17への昇格が現実味を帯びてきた頃、状況は一変します。トミー・バーンズが亡くなり、クラブの体制が変わったのです。新しいコーチ、新しいユース責任者……彼らは僕とは違う道を選びました。フィジカル面などを理由に、僕は次のステップへ進む準備ができていないと判断されたのです。
いま振り返れば、それは僕のキャリアにとって最高のことでした。もちろん、15歳の少年にとって、生涯応援してきたクラブでプレーする夢が絶たれた瞬間は、言葉にできないほど辛かったです。でも今は当時とはまったく違う感情で、その記憶を捉えています。
結果的に移籍したクイーンズ・パークFCでの経験が、僕を人間として、そして選手として大きく成長させてくれました。もしセルティックに残っていたら得られなかったであろう機会を、そこで得られたのです。
──「辛かった」という言葉がありましたが、それは今も多くの若い選手が経験する壁です。クイーンズ・パークへ移る前、ご自身のキャリアに疑いを持ちましたか? それとも「彼らが間違っていると証明してやる」という反骨心のほうが強かったですか?
ロバートソン:最初は間違いなく疑念がありました。キャリアで初めて、はっきりと「君の力は足りない」と告げられたのですから。それまでは毎年契約を更新され、レギュラーとしてプレーしていたので、初めての大きな挫折でした。
そこから、自分にとって正しいクラブとタイミングを選ぶ必要がありました。正直、最初にクイーンズ・パークから話があった時は、それほど興奮しませんでした。当時の僕はセルティックにいて、彼らはスコットランドの最下部リーグに所属していたからです。ただ、彼らが非常に優れたユースアカデミーを持っていることは、あとから知りました。
「まあ、どうなるか見てみよう」と1週間の練習に参加してみると、そのコーチングのレベルの高さに圧倒されたんです。両親もそれが僕にとって良い環境だと感じてくれたようでした。ここでならチャンスがもらえると確信し、入団を決意しましたね。
──そういった障壁を乗り越えた経験は、今の自分を形作る上でどのように役立っていますか?
ロバートソン:あの経験で僕の考え方は大きく変わりました。セルティックにいれば、誰もが注目する国内最大クラブの選手です。ユースレベルでさえ、対戦相手は羨望の眼差しでこちらを見てきます。ですが、そこを離れた瞬間から、僕は“アンダードッグ”になりました。そして、その立場が自分には合っていたのです。
「見てろよ、俺の実力を証明してやる」と、常に挑戦者の気持ちでいられる。あの挫折があったからこそ、人々が間違っていると証明することに喜びを感じるんです。何よりもまず、自分自身が「できる」と証明し、同時に「君たちの判断は間違いだった」と示すこと。それが僕の腹の底にある闘志の源であり、今も毎日成長し続けようと思える原動力になっています。
──スコットランドからイングランドのプレミアリーグへ渡る選手は多いですが、ハルからオファーが来るまで、それは現実的な選択肢でしたか?
ロバートソン:ハルに移籍するまでも、いくつか関心を示してくれるクラブはありました。エヴァートンがオファーを出してくれたこともあり、プレミアリーグからの興味があることは認識していました。ただ、あまり先のことは考えず、その瞬間を大切にプレーしていましたね。
オファーが来ても、それがクラブに受け入れられるまでは何も決まらない。僕は常にそう考えていました。そして会長から「オファーを受け入れた」と告げられた時、初めて僕が決断を下す番が来たのです。
──ハルに移籍したばかりの頃、ロッカールームで心の支えになった選手はいましたか?
ロバートソン:ええ、本当に恵まれていました。同郷のアラン・マクレガーとロバート・スノッドグラスがいてくれたのは大きかったです。マイケル・ドーソン、トム・ハドルストン、ジェイク・リヴァモアといったプレミアの酸いも甘いも知る面々も加わっていて、若手の僕でもすぐに溶け込める雰囲気がありました。彼らの存在が、ピッチ外での孤独感や不安を薄め、サッカーだけに集中させてくれたのです。
──そのハルで迎えたプレミアデビューは、敵地ロフタス・ロードでのQPR戦でしたね。
ロバートソン:あの日は忘れられません。シーズン開幕戦でいきなり先発を任され、「まずはインパクトを残そう」と心に決めていました。結果は1-0の勝利。僕自身も守備と攻撃で手応えをつかみ、「ここでやっていける」と感じられた最初の90分でしたね。
──スティーブ・ブルース監督のもとハルで過ごした時間は、控えめに言っても波乱万丈でしたね。
ロバートソン:まさにジェットコースターのようでした。最初のシーズンで降格を経験し、本当に辛かったです。ですが、その翌年のチャンピオンシップでのシーズンは、僕のキャリアで最も重要な一年になりました。
選手として大きく成長し、多くを学びました。チームで最も多くの試合に出場し、監督からの信頼を勝ち取ることができた。チャンピオンシップは毎週タフな試合が続く、非常に過酷なリーグです。その厳しい環境こそが、僕を鍛えてくれたんです。シーズン最終盤に昇格を勝ち取った経験は、まさに最高の締めくくりでしたね。
──では、リヴァプールがあなたに関心を持っていると初めて聞いたのはいつですか?
ロバートソン:ハルとの契約が最後の年に入った頃、リヴァプールが興味を持っているかもしれないという話を耳にしました。でも、あのような偉大なクラブからの関心ですから、実際に話が具体化するまでは信じられませんでしたね。「まだ可能性に過ぎない」と自分に言い聞かせ、目の前のプレーに集中していました。
そして残念ながらチームが降格してしまった夏、ハルを離れる時が来たと感じました。プレミアリーグに残りたかった。そんな中、リヴァプールが正式に声をかけてくれたのは、本当に幸運でした。
──初めてユルゲン・クロップ監督に会った時のことを覚えていますか? 多くの人が彼の圧倒的な存在感について語りますが。
ロバートソン:鮮明に覚えています。シンガポール遠征からチームが戻ってきた直後のトレーニングでした。監督が僕の方へ歩いてくるのを見た瞬間、彼が持つ特別なオーラを感じました。彼はやってくるなり、あの有名な力強いハグで僕を迎えてくれ、「ここに来てくれて嬉しい」と、僕がチームに馴染めるように手伝うと約束してくれました。
彼がフルバックに求めるプレーは、僕にとってまったく新しいもので、習得するには少し時間が必要でした。でも、スタッフが僕を成長させようと懸命にサポートしてくれた。チャンスが来るまで、辛抱強く待たなければならないと理解していましたが、同時にこのレベルでやれることを証明したくて、うずうずしていました。
──そして、アンフィールドでのクリスタル・パレス戦でデビューのチャンスをつかみます。あれはキャリアの分水嶺でしたね。
ロバートソン:ええ。ミッドウィークのチャンピオンズリーグ予選があったため、監督は主力のアルベルト・モレノを休ませる決断をしました。幸運にも、僕にチャンスが巡ってきたのです。監督から先発を告げられた時、「このチャンスを絶対に逃すものか」と誓いました。
リヴァプールのユニフォームを着て、アンフィールドのピッチに立つ。家族もスタジアムで見守ってくれていました。試合前、頭の中で「ここまでどれだけ努力してきたか思い出せ。この最高の舞台を、最高のチームでのプレーを、心から楽しむんだ」と自分に言い聞かせました。そして、その通りのプレーができたと信じています。
ただ、当時はまだ監督が求めるプレーを完璧に体現できていたわけではありませんでした。そこからさらに学び、辛抱強く次のチャンスを待つ必要があった。11月の終わり頃に再び出場機会を得た時には、毎週試合に出たいという渇望で満ちあふれていましたね。「次にチャンスが来たら、もう二度とこのポジションは譲らない」と心に決めていたんです。
──あなたは、クロップ監督がチームを作り上げていく最高のタイミングでリヴァプールに加入したように見えます。
ロバートソン:僕が加入した夏、そしてその後の移籍市場は、クラブにとって非常に重要でした。僕と同じ時期にモハメド・サラーとアレックス・オックスレイド=チェンバレンが、冬にはフィルジル・ファン・ダイクが、そして翌夏にはファビーニョとアリソンが加わりました。人々が「パズルのピースが埋まった」と語る、まさにその時です。
僕が加入した最初のシーズンにチャンピオンズリーグ決勝へ進出し、敗れはしたものの、チームには確かな勢いがありました。そして翌シーズン、ついにチャンピオンズリーグのトロフィーを掲げることができた。世界中が再びリヴァプールに注目し始めた、あの熱狂の中心にいることができました。サッカーではタイミングが全てですが、僕は完璧なタイミングでこのクラブに来ることができたと思っています。
──クロップ監督に率いられたあのチームには、特別なオーラがありましたね。
ロバートソン:あの頃は試合へ臨むたびに、自分たちが無敵だと感じていました。トンネルからピッチへ出る前から、1-0でリードしている気分だったんです。監督の顔を見れば、彼が勝利に燃えているのが伝わってくる。そのエネルギーがチーム全体に伝播していました。特にチャンピオンズリーグとプレミアリーグを制した2シーズンは、どのチームも僕たちと対戦したくなかったと思います。
僕たちは自信に満ちていましたが、それだけではありません。もし相手が僕たちから勝ち点を奪おうとするなら、彼らは心身ともに疲れ果てるまで戦わなければなりませんでした。それほどの覚悟を相手に強いることができた。特別なグループであり、その一員であったことは特別な感覚です。
──その圧倒的なエネルギーは、やはり監督から発せられていたのでしょうか?
ロバートソン:ええ。彼は「疑う者から信じる者へ(From Doubters to Believers)」という有名な言葉でファンを鼓舞しましたが、僕たち選手に対しても同じでした。彼は、僕たち一人ひとりがキャリアで挫折を経験してきたことを理解していたのです。サラーが若い頃にチェルシーを去らなければならなかったように、ファン・ダイクが子どもの頃に困難を経験したように、僕たち全員、トップへの道は平坦ではなかった。
監督はその挫折を、僕たちがさらに前へ進むための力に変えてくれました。彼が僕たちに、これまで誰も抱いたことのないような強い信念を植え付けてくれたのです。その信念をピッチで体現するのが僕たちの役目であり、僕たちはそれを非常にうまくやってのけたと思っています。
──クラブにとって悲願だったプレミアリーグ優勝。その重みは、加入した時から感じていましたか?
ロバートソン:クラブ関係者と話している時はそれほどでもありませんが、ファンと最初に交流した瞬間から、その熱意は痛いほど伝わってきました。「リーグを獲ってくれ」と。ホテルに滞在していた最初の数週間、出会うファンの誰もが、それを口にしていました。
僕たちは、その悲願を達成するグループになりたいと強く願っていた。リヴァプールを再びイングランドの頂点に立たせるために、練習から100%の力を注ぎ、毎試合完璧を期して戦いました。そして、ありがたいことに、僕たちはそれを成し遂げられたのです。
──その偉業を共にしたクロップ監督が、退任することをどのように知りましたか?
ロバートソン:世間に発表される、ほんの数分前に知りました。彼とのミーティングの場で直接告げられたのです。彼が部屋を出て、僕たちが携帯電話を手に取った時には、もうニュースが世界中を駆け巡っていました。クラブの賢いやり方だったと思います(笑)。
彼がミーティングルームに入ってきた時、何かいつもと違う雰囲気を感じました。そして彼は、自分のエネルギーが尽きかけており、前に進む時が来たと説明しました。僕たちは皆、彼を心の底から尊敬していますから、その決断を尊重する以外にありませんでした。
もちろん、全員が大きなショックを受けました。彼がこのクラブに連れてきてくれた選手が、今でも多く在籍しています。彼がいなければ、僕たちはこのクラブにいなかったし、これほどの成功を収めることもできなかった。彼が僕たちに与えてくれたすべてに、永遠に感謝し、敬愛し続けます。僕たち全員の人生にとって、本当に特別な時間でした。
──クロップ監督しか知らなかったこのクラブに、新たにアルネ・スロット監督がやってきました。慣れるのに少し時間はかかりましたか?
ロバートソン:ええ、正直に言って奇妙な感覚でした。監督だけでなく、コーチ、スタッフ、至る所に新しい顔があって、「よし、これから彼らを知っていかなければ」と。でも、それは同時に新鮮な経験でもあるのです。リフレッシュした気持ちで、新しい監督に自分の価値を証明したいという意欲に満ちていますよ。
──キャリアを重ねた今でも、新しい監督から学ぶことはありますか?
ロバートソン:もちろんです。僕たちは日々、とても多くのことを学んでいます。フィジカル的にも精神的にもタフなことですが、その努力が良いシーズンのスタートにつながりました。
クロップ監督の下では、プレーの原則が体に染み付いていて、頭で考えなくても体が動くほどでした。でもスロット監督は、僕たちにまったく違うポジショニングや動きを求めることがあります。常に新しいことを学び続けるのは、時に必要なことですし、リフレッシュでき、興奮も与えてくれます。その良い影響は、若い選手だけでなく、僕たち経験豊富な選手からも見て取れると思いますよ。
──クロップ体制でおなじみだった“力強いハグ”は、スロット監督の下ではどう変わりましたか?
ロバートソン:今はハグじゃなくて“握手”で始まるんですよ。「ハグは封印、まずは握手からだ」と冗談を飛ばし合っています(笑)。
もっとも、ピッチ上で求められるハードワークは相変わらずです。監督は細部の改善にこだわりがあって、僕らも毎日学び直しの連続です。フレッシュな空気が流れていて、みんなが新しいチームを楽しんでいますね。
──ピッチ外ではMBE(大英帝国勲章)を受勲し、慈善財団の設立やフードバンクでの活動も行っていますね。
ロバートソン:MBEの受勲は大変光栄なことでしたが、自分が正しいと信じることをした結果に過ぎません。チャリティーを始めたのはロックダウン中で、自分の人生や周りの人々のことを深く考える時間ができたのがきっかけでした。自分が非常に幸運だと再認識し、何かを還元したいと思ったのです。
僕が子どもの頃そうだったように、子どもたちがただ友達と笑顔でサッカーを楽しめる機会を提供したかった。財団を通じて、子どもたちが楽しそうにピッチを走り回っている写真を見る時、心からの満足感を覚えます。
フードバンクの活動も同様です。この社会からフードバンクを必要とする人々が一人でも減ることが、僕の願いです。恵まれた立場にいる人間として、そのギャップを少しでも埋めることができれば、誰もがより良い生活を送れるようになると信じています。
──最後に、リヴァプールで300試合出場という偉大な記録を達成したことへの誇りを聞かせてください。
ロバートソン:とてつもなく大きな誇りを感じています。このクラブと契約した時、これほど多くの試合に出場できるとは夢にも思いませんでした。僕の目標は、できるだけ長くこのクラブに留まり、プレーし続けることでした。どんなクラブでも300試合に出場するのは難しいことですが、リヴァプールのような偉大なクラブではなおさらです。それを達成できたことを、心から誇りに思っています。
「サッカーのことは、プレーで語る」。その信念を胸に、アーセナルをはじめとした世界のトップクラブで戦い続けてきた、ウェールズ代表のアーロン・ラムジー。17歳の少年が抱いた夢の軌跡と、今なお彼を突き動かす情熱の源とは。これまでの偉大なキャリアとその原点、サッカー選手としての現在地を、本人の言葉とともに紐解いていく。
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