ドミニク・ソランケが明かす、日本文化とアニメ愛。「うずまきナルト」の姿から、選手としてのメンタリティを学ぶ?
トレーニング直後、ロンドン市内の日本食レストランに現れたドミニク・ソランケ。日本文化を愛する彼は、慣れた手つきでお箸を操る。ユニークなゴールセレブレーションの源泉でもあるという、深いアニメ愛。聞けばただ好きなだけではなく、選手としてのメンタリティにも大きく影響しているという。ピッチ上での獰猛さとは異なる穏やかな表情で取材に応じる、ストライカーの意外な素顔に迫る。
イングランド南部に位置する海辺の街、ブライトン。その景色は、プレミアリーグで躍動するペルビス・エストゥピニャンに、遠く離れた故郷エクアドル・エスメラルダスの海を思い出させるという。単なるサイドバックではなく、「すべてをこなす選手」へと成長した彼の原点とは、どのようなものなのだろうか。南米のサッカー少年たちに夢を与える存在となった今、故郷への想い、そして代表としての誇りを胸に、自らの歩んできた道を振り返る。
──ブライトンの街の印象はいかがですか?
エストゥピニャン:ええ、とても良いですよ。ブライトンはいつだって本当に素晴らしいです。天気が良いときは散歩に来たり、妻や子どもたちと一緒に歩いたり、コーヒーを飲んだりして過ごします。夏になると少し日が差すこともあって、散歩するには最高の天気ですね。
──イングランドの気候や街にはすぐに適応できましたか?
エストゥピニャン:はい。クラブに着いたとき、南米出身のチームメイトがたくさんいたことが大きかったです。僕と同じくエクアドルのモイセス・カイセド、ヘレミ・サルミエント、パラグアイのフリオ・エンシソ、アルゼンチンのマック・アリスター、そしてファクンド・ブオナノッテも加わりました。彼らの存在が、僕がより早く適応するのを助けてくれたのです。
──ピッチ外でのコミュニケーションもスムーズでしたか。
エストゥピニャン:ブライトンは小さいけれど、とても居心地の良い街です。退屈な街というわけではなく、美しいビーチや海辺の遊歩道がある。本当に素晴らしい場所で、すぐに馴染むことができました。英語もどんどん上達していて、今では問題なく会話できます。もちろん、試合が多くて集中力が求められる時期は大変なこともありますが、うまく切り替えながらやっていますよ。
──あなたの出身地であるエクアドルのエスメラルダスも、海辺の街ですよね。
エストゥピニャン:はい、そのとおりです。僕が生まれたエスメラルダスも沿岸の街で、そこにもビーチがあります。たくさんの美しい文化があって、一年中気候が良いんです。ブライトンと似ている点を挙げるなら、やはりビーチの存在ですね。この景色が、僕に故郷を少しだけ思い出させてくれるんです。
──あなたにとって、ビーチは特別な場所なのですね。
エストゥピニャン:とても好きです。休暇のときは、いつもビーチのある場所に1、2週間滞在したり、故郷に帰ったりします。ビーチのある街で育ったので、やはり特別なつながりを感じますね。ただ、ここ数年は国の状況が少し複雑になってしまい、残念ながらエスメラルダスには帰れていないのですが…。
──故郷に帰りたいという思いは強いですか。
エストゥピニャン:そうですね。僕だけでなく、エスメラルダス出身の選手はたくさんいますから。状況が落ち着いたら、みんなで故郷を訪れたいと思っています。僕たちに憧れてサッカーをしている子どもたちや、応援してくれている人々に会って、一緒に楽しい時間を過ごしたいですからね。
──あなたやモイセス・カイセド選手をはじめ、今多くのエクアドル人選手がヨーロッパで成功を収めています。この状況をどう見ていますか?
エストゥピニャン:とても素晴らしいことだと感じています。昔はヨーロッパに来る選手はいても、僕たちのようにトップレベルで長く活躍する選手は多くありませんでしたから。これはアントニオ・バレンシアのように、先に道を切り拓いてくれた選手たちのおかげです。彼らが輝いていた姿を見て、子どもだった僕らは「彼らにできるなら、なぜ僕にはできないんだ?」と夢を抱くことができた。今度は僕たちが、次の世代の子どもたちの手本になれればと思っています。プレミアリーグだけでなく、ヨーロッパを目指す多くの選手のね。
──あなたのサッカーのルーツについてお聞かせください。どんな子ども時代を過ごしましたか?
エストゥピニャン:僕の子ども時代はとても美しく、素晴らしいものでした。5人兄弟の質素な家庭で育ち、経済的には恵まれていませんでしたが、決して貧しかったわけではありませんでした。いつも僕たちのために働いてくれる父と、愛情を注いでくれる母がいましたから。
僕が育った地区は安心して外で遊べるような、穏やかな場所でした。そのおかげで、何にも危険を感じることなく、サッカーのプレーを学べたのです。僕はいつも、自分がどこから来たのかを忘れません。そのルーツをより深く知り、つながりを保つために、故郷へ帰ることが好きなのです。
──サッカーを好きになったきっかけは何だったのでしょうか?
エストゥピニャン:僕の家系は、サッカー選手が多いことで知られているんです。エクアドルのトップリーグや代表チームでプレーした親戚もいましたし、兄弟もサッカーをしていました。特に母の兄弟である叔父は代表選手で、彼の姿を見て育ちました。自然とボールが好きになり、友達といつもグラウンドへ。学校が終わっても帰りたがらず、母が迎えに来なければならないほどでした(笑)。
──まさにサッカー少年だったのですね。
エストゥピニャン:はい。ある日、母が手術で療養することになったのですが、そんな時でも僕は外で遊びたがる、わんぱくな子どもでした(笑)。
母は僕が通りにいることを心配していました。そして最終的に、プロサッカー選手だった叔父の元へ僕を送ることに決めたんです。5歳でキトに住む叔父の家に移り住み、彼がプレーする姿をスタジアムで見るうちに、サッカーへの愛情はさらに深まっていきました。そこが、僕のすべての始まりです。
──ご両親は、あなたの夢をいつも応援してくれたのですか?
エストゥピニャン:両親には本当に感謝しています。小さい頃から、僕がやることをいつも応援してくれました。父はスクールのユニフォームを買うために奔走してくれました。僕自身も、友達とテニスクラブでボール拾いのアルバイトをして、お小遣いを稼いでいました。11歳か12歳の頃ですね。必要だったからではなく、それが楽しかったんです。
──あなたにとって、叔父のホルヘ・グアグア氏の存在は非常に大きいようですね。
エストゥピニャン:彼は僕の人生にとって、本当に重要な人物です。プロのサッカー選手になるという子どもの頃の夢が始まったのは、彼のおかげですから。トライアウトを受けられるように話をしてくれたのも叔父でした。推薦してくれる人がいるというのは、全然違います。今でも彼には感謝し続けていますし、ブライトンに僕を訪ねてきてくれることもありますよ。子どもの頃のたくさんの思い出が蘇りますし、彼は僕のキャリアにとって不可欠な存在です。
──LDUキトでは13歳で入団し、16歳でトップチームの練習に参加するなど、非常に早い出世でした。
エストゥピニャン:年上の選手たちに混じってプレーするのが好きで、両親はいつも「怪我をするぞ」と心配していましたが、好きなことだったので危険だとは感じませんでした。自分の年齢のカテゴリーでは差をつけることができていたので、どんどん上のカテゴリーに昇格させてもらえました。そして、16歳でトップチームにたどり着いたのです。
──そして18歳で、プレミアリーグのワトフォードから声がかかります。
エストゥピニャン:正直なところ、当時はそのことの重大さを完全には理解していませんでした。もちろん、プレミアリーグは見ていましたし、アントニオ・バレンシアのようなエクアドル人選手が活躍していることも知っていました。だから、ワトフォードからオファーが来たときは驚きましたね。ただ、最初は移籍したくなかったんです。
──ワトフォードでは公式戦の出場がありませんでしたが、そこからスペインでのキャリアが始まりましたね。
エストゥピニャン:当時はまだ若く、代表でのプレー経験もなかったため、イギリスの労働許可証を取得できませんでした。そこでワトフォードは、僕がスペインのパスポートを取得できるよう、スペインのクラブへレンタル移籍させてくれたのです。もしかしたら、クラブは僕がまだプレミアリーグでプレーする準備ができていないと判断したのかもしれません。でも、そのおかげで僕はスペインで選手として成長し、多くを学びました。スペインのサッカーも大好きになりましたね。
──そしてビジャレアルへ完全移籍し、ウナイ・エメリ監督と出会います。
エストゥピニャン:オサスナで良いシーズンを過ごした後、移籍市場が閉まる最後の週にビジャレアルが声をかけてくれました。エメリ監督との日々は、とても素晴らしかったです。彼からは本当に多くのことを学びました。今でも対戦するときは、敬意と感謝を込めて挨拶を交わします。
──エメリ監督はどんな指導者でしたか?
エストゥピニャン:一言で言えば…「インテンス」でしたね(笑)。複雑で、厳しい要求も多かった。でも、最終的には、彼が選手一人ひとりのために最善を尽くしてくれているのだと理解できます。彼とともに働くスタッフも素晴らしく、今の僕があるのは彼らのおかげです。
──そのビジャレアルで、ヨーロッパリーグ優勝という快挙を成し遂げました。
エストゥピニャン:誰も予想していなかったでしょうね。僕たちはヨーロッパの強豪を次々と破り、頂点に立ちました。エメリ監督は試合の準備が本当に巧みで、対戦相手を分析するミーティングは1時間、時には2時間近くにも及びました。あくびをする選手もいましたが(笑)、彼が言った通りのことがピッチで起こるんです。あの勝利は、まさに彼の戦術の賜物でした。
──そしてブライトンへ移籍し、ロベルト・デ・ゼルビ監督と出会います。彼のサッカーは、あなたのプレーをどのように変えましたか?
エストゥピニャン:一言でいえば、ものすごく変わりましたね。彼の元で、僕は“革命的”ともいえる変化を遂げました。以前はただの左サイドバックでしたが、デ・ゼルビ監督は僕を、内側でプレーするサイドバック、ウインガー、フォワード、時にはセンターバックまで、すべてを同時にこなす選手に変えてくれたのです。
スペイン時代とは全く異なる役割を学び、選手としてさらに大きく成長できました。僕たちがやっていた革新的なサッカーを、多くのチームが後から真似し始めたことにも気づきました。
──その後やってきたファビアン・ヒュルツェラー監督のサッカーは、デ・ゼルビ前監督と比べていかがですか?
エストゥピニャン:基本的なプレースタイルは似ていますが、よりフィジカル的な要求が高いかもしれません。ヒュルツェラー監督は「フォワードであっても守備をしなければならない」という考えを明確に持っています。全員で守備をすることが、試合に勝つためには不可欠な時があるからです。それはチームにとって大きな助けになります。
──あなたの加入初年度、ブライトンはクラブ史上最高のプレミアリーグ6位でシーズンを終えました。これほどの成功を予想していましたか?
エストゥピニャン:正直なところ、まったく予想していませんでした。事前に言われても信じなかったでしょう。でも、このクラブの歴史の一部になれたことを、心から誇りに思います。あの最初のシーズンは本当に素晴らしかったです。これからも、再びヨーロッパの舞台に立てるように頑張りたいです。
──監督や選手が入れ替わっても強さを維持できる、ブライトンの秘密は何だと思いますか?
エストゥピニャン:鍵はクラブの上層部にあると思います。会長や経営陣、スタッフたちが本当に良い仕事をしている。彼らは時間をかけて、将来性のある若い選手たちを、南米やヨーロッパから見つけ出してきます。それが、ブライトンが常に高いレベルで戦い続けられる理由です。
今はほかのチームにレンタル移籍している選手の中にも、素晴らしいポテンシャルを持った若手がたくさんいます。彼らが成長して戻ってきたとき、ブライトンはさらに強くなるでしょう。
──エクアドルの子どもたちにとって、代表チームでプレーすることは大きな夢なのでしょうね。
エストゥピニャン:はい、もちろんです。何百万人もの国民を代表してプレーすることは、夢であると同時に、大きな責任でもあります。家族に、僕が代表チームにいること、そして国が勝利することを誇りに思ってほしい。その気持ちが常にあります。サッカー選手のキャリアは短いので、この瞬間を最大限に楽しんでいます。
──エクアドルの人々のサッカー熱は、どれほどのものですか?
エストゥピニャン:エクアドルだけでなく、南米の人々は皆、サッカーに情熱的です。国がどんな問題を抱えていようと、経済的に苦しかろうと、関係ありません。代表戦の日には、朝から街中の人々が代表のユニフォームを着て応援してくれる。その光景を見ると、僕たちはいつも感動します。それは本当に美しいことです。
──あなたにとって、ワールドカップでプレーした経験はどのようなものでしたか?
エストゥピニャン:言葉では言い表せない、決して忘れることのない体験でした。僕にとって初めてのワールドカップ。もっと出場したいと願っていますが、あの最初の大会は本当に信じられないものでした。
自分が子どもの頃、みんなでテレビを外に持ち出して代表戦を見ていた光景が頭に浮かびました。そして、その舞台に自分が立っている。両親を現地に招待することもでき、最高の思い出になりました。
──最後に、あなたは給料の1%を寄付する「コモン・ゴール・ムーブメント」に参加していますね。その決断の背景には何があったのでしょうか?
エストゥピニャン:僕自身、助けを必要とする人がたくさんいるような貧しい地区、そして国の出身です。僕は常に神を信じていますし、人を助けられる状況にあることについても、神に感謝しています。もし誰かのためにほんの少しでも力になれるなら、ためらう理由はありません。僕のSNSを管理している人からこの活動について聞き、すぐに参加を決めました。故郷の子どもたちや人々を支援できることを、僕は誇りに思っています。
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