「1秒速く考え、1秒速く動く」マンチェスター・Cの心臓ロドリの攻守を、フランク・ランパードと紐解く
2024年10月、スペイン人選手として64年ぶりとなるバロンドールを受賞したマンチェスター・Cのロドリ。フットボール選手として最高の栄誉を手にした一方で、2024-25シーズンは右ひざ前十字じん帯断裂という大怪我の影響で、ほとんどの時間をピッチ外で過ごすことになった。 今回お届けするのは、そんな彼がバロンドール受賞直前の2024年9月に応じたインタビューである。
厳しい批判の声を力に変え、ピッチで挑み続けるチェルシーの若きストライカー、ニコラス・ジャクソン。2024-25シーズンは怪我がありながらも、最終的にリーグ戦30試合で10ゴール5アシストの結果を収めた。
その強靭なメンタリティと類まれな足元の技術は、いかにして育まれたのか。裸足でボールを追いかけたセネガルでの少年時代から、ヨーロッパのトップリーグへと駆け上がった今に至るまで。数々の転機をジャクソン自身の言葉で紐解きながら、ハングリー精神の源泉と「頑固者」を自称するパーソナリティに迫る。
──まずはニコラス選手のバックグラウンドについてお聞かせください。セネガルとガンビアにルーツがあるそうですね。
ジャクソン:はい。僕はセネガル人ですが、父がガンビア人なので、ガンビア人でもあります。若い頃、父と一緒にガンビアへ行きました。アフリカでは若い頃、普通は父親のところへ行くものなんです。父の家で過ごした後、14歳か15歳の時にセネガルに戻り、また母と一緒に暮らし始めました。
──お母様は、あなたがサッカーを好きになる上でどのような存在でしたか?
ジャクソン:母は僕が何をしているか、あまり気にしていませんでしたね。僕が成功して、自分のやりたいことをやるのを望んでいただけです。サッカーを強制されたことは一度もありません。ただ僕に幸せでいてほしくて、やりたいことをやってほしかったのだと思います。
──お母様は農場で働いていたとか。
ジャクソン:ええ、母はいつも農場で働いていました。でもそれは普通のことです。母だけでなく、セネガルの母親はみんな農場で働くか、市場で物を売るかしています。だから、それは特別なことではなく、ごく当たり前の日常でした。
──サッカーの道を選んだ決定的な理由は何だったのでしょうか?
ジャクソン:これ、という一つの選択をするのは難しいですよね。だから、自分が本当にやりたいことを見つけて、それに100%打ち込むしかないんです。僕はそれがサッカーでした。ただプレーしようと決めて、毎日全力でトレーニングに打ち込みました。
もちろん、若い頃はストリートサッカーばかりでした。そこから国内のチームに入り、1部リーグでプレーして、ビジャレアル、そして今こうしてチェルシーにいます。
──ストリートサッカーについて、もう少し詳しく教えてください。今でこそプレミアリーグの華やかな舞台でプレーしていますが、少し前まではサッカースパイクさえ持っていなかったそうですね。
ジャクソン:はい、持っていませんでした。セネガルでは本物のスパイクは高価すぎて手に入らないんです。だから普段は学校の靴か、裸足でプレーしていました。というのも、父方の家族は僕にサッカーをしてほしくなかったんです。
──プレーに反対されていたのですか?
ジャクソン:プレーしてほしくなかったというよりは、サッカーで時間を無駄にしてほしくなかったという方が正しいですね。セネガルでサッカー選手として成功するのは、本当に難しいことですから。とてつもない才能か強運がなければ、国外に出られるのは10年で2人程度。だから家族は「プレーなんかしていないで、勉強しなさい」と。
学校では裸足か学校の靴でプレーするのですが、靴はすぐに壊れてしまうので、結局はいつも裸足でプレーしていました。でも、それは決して悲しい話ではありません。僕だけじゃなく、友達もみんなそうでしたからね。
──ご家族が学業を勧める中、ご自身がその他大勢ではなく成功する一握りになれると、どうして信じることができたのですか?
ジャクソン:若い頃から、自分にはその力があるとわかっていました。覚えているのは、まだ幼かった頃、父に「将来何になりたい?」と聞かれた時のことです。僕は「サッカー選手」と答えました。すると父は笑いながら「それは難しいな」と言いました。でも、その時から成功を疑ったことはありません。「自分はこれが得意なんだから、これをやるべきだ。そのために悪い誘惑には乗らない」と。自分がなりたいものになれると、固く信じていました。
──本格的なサッカーを始めたのは、セネガルのASC Telenからですか? ストリートサッカーとの違いに戸惑いはありましたか?
ジャクソン:そうですね。特に、スペイン(ビジャレアル)へ渡った当初が大変でした。それまでは戦術なんて知らず、ただボールを持って走り、ドリブルを繰り返すだけ。スペインでコーチにポジショニングを教わった時も、「いいから自由にプレーさせてくれよ」と思っていましたから(笑)。
でも、次第にその重要性を理解していきました。戦術やオフ・ザ・ボールの動きを学ぶのに3年ほどかかりましたね。セネガルでは、そんなことは一切やっていませんでした。Telenでの1年間も、ストリートサッカーの延長線上のようなものでした。
──その才能は当時から抜きん出ていたのですね。
ジャクソン:セネガルのジガンショール州では、僕が最高の選手でした。そして現在のエージェントが見つけてくれて、カサ・スポーツというクラブに1年間在籍した後、ビジャレアルへ移籍しました。そこで3年半過ごし、ウナイ・エメリ監督が僕をトップチームに引き上げてくれたんです。彼は僕にサッカーの多くのことを教えてくれました。
──カサ・スポーツ時代には「ネイマール」というニックネームがついたそうですね。
ジャクソン:いえ、実はTelenにいた頃からそう呼ばれていました(笑)。若い頃によく見ていたのがネイマールだったので、彼のプレーを真似てドリブルばかりしていたら、いつの間にかみんながそう呼ぶようになったんです。「やめてくれ」と言ったのですが、誰も聞いてくれませんでした。当時は僕の本名を知らない人の方が多かったくらいです。
──スペインへ渡り、言葉の壁などはどう乗り越えたのですか?
ジャクソン:言葉が通じなかったので、もちろん最初は難しかったです。でも僕は人と交流するのが好きなので、すぐに学びました。周りに英語を話せる人が一人しかいなかったので、スペイン語を話すしかなかった、という事情もありますが(笑)。6、7ヶ月で不自由なく話せるようになりました。ビジャレアルのスイダ・デ・ポルティバ(選手寮や練習場が集まる複合施設)に住んで、そこで言葉を覚えました。
──ビジャレアル加入後、ミランデスへレンタル移籍を経験しました。この経験は精神的にどのような影響を与えましたか?
ジャクソン:あの経験は僕を大きく成長させてくれました。当時はまだビジャレアルのU-19チームにいたのですが、2部リーグのミランデスに引き抜かれたんです。しかし、ハムストリングの怪我が再発してしまい、ビジャレアルのBチームに戻ることになりました。
トップチームに昇格できると思っていたので、戻ってきた時は本当に腹が立ちました。でも同時に、「自分はまだトップチームで戦う準備ができていないんだ」と自覚しました。そこから、自分の周りのすべてを変えましたね。食事、付き合う人々、すべてを見直したんです。
──具体的に何を変えたのですか?
ジャクソン:文字通りすべてです。周りの環境をすべて変えました。怪我から完全に回復したことで、プレーにも自信が戻りました。そのシーズン、僕たちBチームは2部リーグへの昇格を果たし、シーズン後にウナイ監督が僕をトップチームに引き上げてくれたんです。そこからは毎試合スターティングメンバーとしてプレーすることができました。
──ウナイ・エメリ監督との出会いは大きかったのですね。
ジャクソン:彼は素晴らしい監督です。僕が知っている戦術の50%は彼から教わったと言っても過言ではありません。彼は僕のすべてを変えてくれました。
以前の僕は、ただボールを愛する子どものようにプレーしていました。でも、それでは自身を傷つけるだけだと彼は教えてくれた。彼は僕を「勝つためのフットボール」をプレーする、大人の選手にしてくれたんです。
──以前のストリートサッカーの自由なプレースタイルは、今のあなたにどれくらい残っていますか?
ジャクソン:今はもう違います。プロとして楽しむためではなく、勝つためにプレーしています。もちろん、プレーの中にその名残が垣間見える瞬間はあるかもしれませんが、根本的な考え方が変わりました。サッカーは勝つことがすべて。そのことを頭に叩き込んでから、僕のすべてが変わったんです。
──あなたは学ぶことに対して非常にオープンな姿勢を持っているように感じます。
ジャクソン:はい。僕を助けようとしてくれる人の話は聞きます。ですが、僕は頑固でもあるので、誰の意見でも聞くわけではありません。ただ口出しするだけで、助ける気のない人もいますからね。
それに、ビッグチームにいればプレッシャーは当たり前です。最高を目指すなら、そうしたプレッシャーに対処できなければならない。ファンはピッチ外の事情なんて気にしません。ピッチ上で何をするか、そして何よりチームが勝つことだけを望んでいる。だから、サッカーは勝つことがすべてなんです。
──ビジャレアル時代、プレミアリーグのボーンマスへの移籍が破談になったことがありましたね。
ジャクソン:ええ。移籍に合意しかけていたのですが、メディカルチェックでハムストリングの怪我が完治しておらず、回復にあと1ヶ月かかると言われました。チームは即戦力を求めていたので、準備ができていなかった僕の移籍はキャンセルになりました。
──その時は、どのような心境でしたか?
ジャクソン:戻ってきた時は、ものすごく腹が立っていました。でも、契約できなかったことに対して怒っていたわけではありません。帰りの飛行機の中で、友人にこう言ったのを覚えています。「心配するな。もっと良いことが来るから。これが人生さ」と。そして、ビジャレアルでプレーするために、以前よりもさらにハードなトレーニングを積みました。その結果、復帰後の2ヶ月で12ゴールを決めることができたんです。あの時、自分がトップレベルで戦うために何をすべきかを確信しました。
──そして、チェルシーへの移籍が実現します。
ジャクソン:シーズンが終わって休暇に入るところで、エージェントに「今はどのクラブの話もしたくない。休ませてくれ」と伝えていました。ACミランなど、いくつかのチームから関心を示されているのは知っていましたが、ある日突然エージェントから電話がかかってきて、「その話は忘れろ。チェルシーに行くぞ」と。僕は「いいね」と即答しました。
──チェルシーからのオファーに迷いはなかったですか? 周囲からは反対の声もあったそうですが。
ジャクソン:エージェントには「でもプレッシャーがすごいぞ」と言われましたが、「心配ない」と伝えました。準備ができていなければ行きません。でも、自分にはその準備ができているとわかっていたから、チェルシーに来ることを決めたんです。
代表チームの仲間からも「行くな、プレッシャーが大きすぎる」と言われました。ただ僕は、「俺たち選手はそれぞれ違う。俺のことに口出しするな。聞きたくもない」と言い返しました。一部の人の意見に惑わされたくなかったんです。チェルシーが多くのストライカーにとって厳しい場所だということは知っていました。でも、僕にはその挑戦に立ち向かう準備ができていました。
──チェルシーでのスタートは、正直に言って困難なものでした。
ジャクソン:はい、とても難しかったです。でも、人生に簡単なことなどありませんから。僕は、むしろ人々が僕について悪く言うのを聞きたいくらいなんです。もちろん、ピッチ内でのプレーに対する批判ですよ。それが僕を駆り立てるんです。若い頃はSNSなども見ていましたが、今はもう見ません。
──プレッシャーは大きい方が良い、と。
ジャクソン:プレッシャーがないということは、誰も自分に期待していないということ。プレッシャーを感じるということは、自分が何か意味のあることをやっている証拠です。クリスティアーノ・ロナウド、エムバペ、メッシ…偉大な選手は誰もがプレッシャーを背負ってきました。ファンが勝利を望む限り、プレッシャーはゲームの一部なんです。
──クリスティアーノ・ロナウドは、あなたのヒーローの一人ですか?
ジャクソン:もちろんです。若い頃から彼やネイマール、そして”フェノーメノ”と呼ばれたロナウドのビデオをたくさん見てきました。特にクリスティアーノのインタビューは何度も見ました。彼がプレッシャーや批判について語るのを聞いて、ビッグクラブでプレーするなら、こういうことが起こるのは当然だと覚悟していました。誰もが自分を好きになってくれるわけではない。自分にできるのはただ努力を続け、自分を信じることだけです。
──チェルシーでプレーするアフリカ人ストライカーとして、ディディエ・ドログバと比較されることも多いと思います。
ジャクソン:僕は自分を誰とも比較しません。なぜなら、まだ彼のレベルには全く到達していないからです。ドログバはアフリカとチェルシーのレジェンドです。彼はすべてを勝ち取った。僕はまだ何も成し遂げていません。そうやって比較されるのは、自分が正しい道を歩んでいる証拠だと思えるので嬉しいですが、今はただ彼のような、あるいは彼を超える選手になるために努力するだけです。
──ドログバ選手のチェルシーでのキャリアも調べていたそうですね。
ジャクソン:はい、ここに来る前に歴代ストライカーの最初のシーズンをすべてチェックしました。ドログバも最初のシーズンは10ゴールで、当時のチームメイトの中には彼の放出を望む声もあったと聞いています。簡単ではなかったはずです。アフリカのレジェンドでさえ、このクラブで苦労しながらも偉大な成功を収めた。その事実は、僕にとって大きなモチベーションです。「彼にできたのなら、なぜ僕にできないんだ?」と。
──故郷のセネガルやガンビアで慈善活動をされているそうですが、それはあなたにとってどのような意味を持ちますか?
ジャクソン:僕は自分のためだけに働いているわけではありません。もちろん自分のためでもありますが、家族や一緒に育った友人たちのために働いています。僕が若い頃にこういう支援があったら、もっと良かっただろうなと思うんです。だから、僕がそれをするのは当然のこと。毎月、食料などを届けています。僕がすることで、少しでも人々の負担が減ればいい。それだけです。
──ご自身がそうだったように、スパイクが買えない子供たちのために、スパイクも送っているとか。
ジャクソン:はい。周囲の選手たちからスパイクをもらったり、自分で買ったりして、故郷の子どもたちに送っています。全員に行き渡るわけではありませんが、以前は100人全員が持っていなかったのが、今は75人が持てるようになりました。少しでも、子どもたちの苦労を減らしてあげたいんです。
──最後に、あなたの将来の夢や野望について教えてください。
ジャクソン:「まだ何も成し遂げていない」というのが本音です。成し遂げたと言えるのは、毎年30ゴールを決めて、一つでも多くのトロフィーを勝ち取るような選手になった時でしょう。心の中には大きな夢がありますが、それについてはサッカー選手を引退した時に話そうと思います(笑)。
──では、サッカー選手としての当面の目標は?
ジャクソン:毎年トロフィーを勝ち取ること。世界最高の選手になること。最高のゴールスコアラーになること。それが僕がサッカーをする理由であり、このクラブのために成し遂げたいことです。頭の中には、今シーズンの個人的なゴール数も設定していますよ。もちろん、これは秘密ですが(笑)。
──その強いメンタリティは、やはりご自身のルーツにあるのでしょうか。
ジャクソン:父から受け継いだものだと思います。彼も非常に頑固な人でしたから。僕も若い頃から頑固で、まるでファイターのようです。ヨーロッパに来てから変わったのではなく、昔から僕という人間の一部なんです。友人に聞いても、僕がまったく変わっていないと言うでしょう。この性格が、ピッチの上でも常に最高を目指す僕を助けてくれているんです。
──貴重なお話をありがとうございました。
ジャクソン:こちらこそ、ありがとうございました。
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