
〈ほしくて、ほしくて、たまらなくほしくて、いったいどうしてほしいのかも、本当にほしいのかももはやわからない──。〉
「ほしい」という欲に憑かれた女性4人を描く、山下紘加さんの新刊『でも、ほしい』が話題を呼んでいます。子どもが欲しくて、見知らぬ男性の精子を購入する中原多恵、マッチングアプリで理想の結婚相手を探す守山みつき、推し活のためなら体を売ることも厭わない安西桃、夫の分身を得るため妊活に励む田崎侑美。世代も生き方も異なる四者四様の欲望の行き着く先は……?著者史上もっとも危険な衝撃作について、山下さんにお話を伺いました。
──『でも、ほしい』では、恋愛、結婚、出産をめぐる欲望に憑かれた4人の女性を描いています。この小説はどのような経緯で生まれたのでしょうか。
山下:編集の方から、「産む/産まないの選択」をテーマにした小説のご依頼をいただいたのがきっかけです。なぜそのテーマを提案してくださったのか意図はわからなかったのですが、あえて聞かずにとりあえず書いてみよう、と。そこからこの話が生まれました。
──結婚や出産というテーマについて、以前から興味があったのでしょうか。
山下:いえ、そういうわけではありません。ただ、精子提供をめぐる問題に関してはニュースなどで見聞きして以前から興味があったので、いつか小説に書けたらと思っていました。
──主人公のひとり・中原多恵は、見知らぬ男性から精子提供を受ける33歳です。ネットで知った男性から精子を受け取り、ショッピングモールの個室トイレですぐさま注入する。冒頭から非常にスリリングな展開ですね。
山下:冒頭の焦燥感は、書きながら自分でもドキドキしました。最初に誕生した人物なので、4人の主人公の中でも多恵には思い入れがありますね。
──多恵のほかにも、みつき、桃、侑美という女性が登場します。山下さんの作品で、複数の視点人物を設けるのは珍しいのではないでしょうか。
山下:そうですね。桃は特に他の登場人物と大きく対比できるような存在にしたいと考えていました。自分の欲求が明確で目的のために行動する他の3人に比べて、彼女は欲求そのものには無自覚で、けれど自分の気持ちに実直。行いを省みることもありません。
みつきは、出産よりも前段階の悩みを抱える女性です。結婚と出産をセットで考えていて、両方とも手に入れなくちゃいけないと焦りを抱いている。最初は、多恵、みつき、桃というタイプの違う3人の視点で書こうと思っていましたが、桃で物語を終わらせることに抵抗があって。彼女はあまり罪の意識を持たない人物なので、他者の視点から見た桃を描こうと思い、叔母にあたる侑美を登場させました。

──執筆にあたり、キャラクター設定は細かく考えるほうですか?
山下:いえ、性格などは具体的に決めずに書き始めます。プロットも基本的には立てません。
今回の場合、冒頭のシーンが浮かんでからはスムーズに書き進められました。世界観に入り込み、のめり込んで一気に書きましたね。難しかったのは、登場人物それぞれの着地点。書きながらだいぶ悩みましたし、いったん完成させてからも何度も改稿を重ねました。
──シビアな展開も多い作品なので、のめり込んで書くのはつらそうです。
山下:つらかったですね。ずっとしんどかったです(笑)。
──どういう意味でのしんどさがありましたか?
山下:4人の欲望が重たくて(笑)。ただ、それは本当に自分の内側から湧き出た欲望なのか、彼女たち自身にも曖昧なんですよね。欲というより、4人とも自分が決めたことを覆すのが嫌なのかもしれません。世間がそう言うのだから、きっと自分も欲しいはず。だから、タイムリミットまでに手に入れなければならないし、その望みが叶わないことが許せない。桃はまた少し違いますが、そういう意識が3人それぞれにあるのではないかと思います。
──では、それぞれが抱える「ほしい」という欲望についてお伺いします。多恵は精子提供を受けるほど子どもを欲しがっていますが、果たして本当に欲しいのは我が子なのか。〈わたしの「ほしい」は、みんなに平等に与えられる当然の権利を、自分だけが剥奪されたような、そういう理不尽さからくる「ほしい」だった〉という一文に共感しました。
山下:その一文を書いた時、多恵の人物像を少し掴めたように感じました。多恵のように、「自分は絶対に少数派にはなりたくない」と思っている人は少なくないように思います。スタンダードな人生を疑ったことがなく、だからこそその道を歩めないかもしれないと気づいた時に愕然とし、プライドも何もかもが崩れていく。とはいえ、多恵の場合、だいぶ自己中心的で凄まじい人ではありますが。
──そんな人に一番共感してしまいました(笑)。
山下:私も、書いている時は多恵に共感しました。少数派の人が周りにいても何も思わないのに、自分がいざ当事者になると焦りや不安を感じる。私にも、そういうところがあるのかもしれません。
──多恵と同い年のみつきは、理想の相手を求めてマッチングアプリで婚活をしています。彼女の場合、恋愛と結婚と出産が緊密に結びつき、この3セットを達成せねばと思い込んでいますね。
山下:とはいえ、本当は何も望んでいないのかもしれません。今はタイパやコスパを重視する時代という印象が強く、効率よく恋愛、結婚、出産したいという思いが先に立っている感じがします。マッチングアプリで会う約束をした男性を前にして「この人にどこまで時間を費やせるのか」と考えたり、相手が待ち合わせに遅れてきた時にその時間を貪欲に取り戻そうとしたりと、時間に関する描写を書いている時はみつきに深く感情移入しました。
みつきは雑誌編集者として、仕事をバリバリこなしてきた女性です。だから、自分ががんばった結果、使った時間分の対価をどこかでずっと求めています。婚活も、自分で望んでやっていることですが、見返りが欲しいとずっと思い続けている。だから疲れていくんだろうなと思いました。
──みつきは、山下さんと同世代です。この年代の実感も込められているのでしょうか。
山下:そうですね。同世代の友達と集まると、自然と恋愛や結婚、出産の話になります。普通に話しているといくらでも情報が集まってくるので、同世代の感覚は意識せずとも反映されていると思います。地方出身の友達が「田舎に帰ると両親から結婚を急かされる。それが嫌だから早く結婚したい」と話していたことも思い出しました。
──3人目の主人公は、20歳の桃です。推し活のためなら性行為も厭わない桃ですが、いつしか思いがけない事態を迎えることになります。
山下:桃は、自分の好きなものを除き、あらゆることに無関心です。自分の身に何が起きているのか俯瞰して捉えることもなく、常に自分の気持ちだけを優先し、短絡的に生きている。子どもの頃から母親の言うことが理解できず、今もとりあえずわかったふりをしてその場をやり過ごしています。これまではその生き方で何とかなりましたが、それではどうにもならない事態になっていく。現実と向き合わずに生きてきた代償のような意味も込めてラストを書きました。
──桃に関しては、ネイルの描写も印象的でした。〈ネイルを始めて爪を伸ばすようになってから、爪の長さ分、自分と世界の間に距離ができた気がする〉から始まる文章に、リアリティを感じました。
山下:私もネイルをしている時期がありましたが、爪って長く伸ばすと、たまに何かにぶつかったり引っかかったりした時に根本がものすごく痛むんですよね。些細なことだけれど短い時と比べて微妙に感度が違う。グラスを持つ時とか、スマホの画面をスクロールする時、パソコンのキーボードを打つ時に、指の腹まで到達せずに爪だけで完結できることも多い。
桃は一見大胆な感じがしますが、繊細で潔癖な部分も持ち合わせていて、世界との距離感をつかめず無自覚な苦しみを抱いているのかもしれないと思い、こうした描写が生まれました。
──そんな桃の叔母にあたるのが侑美です。最後に加えた人物だとお話されていましたが、侑美の心情も深く掘り下げられています。
山下:侑美は、愛する夫の分身が欲しくて妊活に励んでいます。お互いが愛し合っている手ごたえが形として欲しくて、子供がいることが家族の完成形だと思っている。だから、形あるものがない限り、ずっと不安を持ち続けるんでしょうね。
──多恵とみつきは大学時代の同級生です。こうした関係性にしたことには、どのような意図があったのでしょうか。
山下:当初は、多恵とみつきは友達という関係性ではありませんでした。それぞれ別の人生を歩んでいて、その道が重なることはない。そう考えていたのですが、ふたりを同級生にすることで他者から見た多恵とみつきを描けるのではないかと思いました。
──このふたりは、お互いから見た人物像と自認している本人像が乖離していますよね。みつきからすると、多恵はスタンダードな人生を歩んでいるように見える。そこに妬ましさを感じますが、実際の多恵はまったくスタンダードではありません。
山下:表面的なものだけを見て、相手のことを判断する人は多いですよね。その人がどのような環境に置かれ、何を考えているかなんてわからないのに、今ある状態だけでジャッジする。外側から見ているだけではわからない、その歪さを描けたらと思いました。
みつきの着地点は少し悩みましたが、みつきは彼女にないものを持っている多恵を一見妬んでいるように見えて、実際は妬んでいなかったのかなと。誰かを妬んでいることに気づいて自分が欲しいものに気づく人もいるけれど、嫉妬が湧き上がらないことで自分が本当は欲しくないんだと気づいて欲から解放される人もいるのではないかと思ったんです。一方、多恵はそこまでみつきに興味がないんですよね。ふたりを同級生にしたことで、多恵がより怖い人になりました(笑)。
──4人とも異常性をはらんでいるようで、どこか共感できるところもあります。山下さんはどんな思いで彼女たちに向き合いましたか?
山下:基本的には、4人ともよくわかりません。ですが、少しずつ共感できる部分があるので、そこを頼りに書いていきました。例えば多恵だったら、「目的を果たしたい」という思考はわかる気がする。自発的に婚活をしているみつきが、どこか被害者意識を抱いてしまうのもわかるし、桃のわからない苦しさも少しわかるんですよね。感情だけでは不安で、形にこだわる侑美の気持ちもわかります。
──「気持ちがわかるな」と思った時に、その人物を書けるようになるのでしょうか。
山下:「全然わからないけれど書いてみよう」ということもあります。書くことで「実際はこうだったのかな」とわかってくる部分もありますから。特に最近は、わからない人物をわかろうとするために、小説を書くところもあります。
──登場人物に対する好き嫌いの感情はありますか?
山下:書いている間はその人に感情移入しているので、好き嫌いを感じることはありません。でも、書き終えてみると、4人ともすごく好きな人ではないですね(笑)。特に多恵とはあまり友達になりたくないかもしれません。嫌いというよりちょっと怖いんですよね、人に興味がなさそうなところが。
──今回は「産む/産まないの選択」というテーマでの依頼だったそうですが、山下さんはこれまでにも身体性を感じさせる小説を書いてきました。執筆にあたり、身体と心の結びつきを意識することが多いのでしょうか。
山下:肉体を通した描写は好きですね。強く意識して書く時もあれば、意識していないけれど自然と滲み出ることもあります。精神と肉体はつながっているので、どうしても肉体を書いてしまうんでしょうね。
──ご自身がこれまで読んできた作品からの影響があるのでしょうか。
山下:川端康成の『眠れる美女』と『片腕』という作品がすごく好きなんです。初めて読んだ時は「女性の腕の付け根の描写だけでこんなに書けるんだ!」という驚きがあったし、描写そのものの美しさにも圧倒されて、強烈なフェティシズムを感じました。いつか身体の一つの部位にフォーカスした小説を自分も書いてみたいです。
──『でも、ほしい』で、出産というテーマを描いた感想をお聞かせください。以前から考えていたテーマではなかったそうですが、実際に書いてみていかがでしたか?
山下:当初のテーマは「産む/産まないの選択」でしたが、書いてみたら「ほしい」という欲望が軸になりました。私自身は昔から執着心や嫉妬心があまりなく、だからこそ深掘りしたくて。「ほしい」と思いながらも、それは本当に自分の内側から立ち上がった欲望なのか、あるいは世間体や、社会や他者によって要請された欲望なのか、揺らぎ続ける4者4様の心情を追いかけてみたくなりました。
それに、「ほしい」と望むほど、自分がそれを持っていない事実を直視することにもなる。「ない」ことが逆に目につくようになるんだなとも思いました。
──「ほしい」という欲望を抱え続ける4人を書き終え、どんなお気持ちですか?
山下:4人とも、楽になってほしいと切実に思いました(笑)。書いている時は、本当に重たくて……。
──これまでの山下さんの作品の中でも、一番の重さかもしれないですね。
山下:そうですね。特に桃の描写が重かったです。みんな「ほしいほしい」と悩みすぎて、こんがらがっている。でも、目的を達成しない限りは自分が納得できず、何も解決しません。書き始めた時からいいラストを迎えることはないだろうと思っていましたが、やっぱり大変なことになった人も。それでも彼女たちの人生はこの先も続いていくんですよね。
──最後に、読者へのメッセージをお願いします。
山下:リアリティを追求し、時代も反映させた小説になりました。読んだ方によって誰に共感するかまったく違うと思うので、感想を聞くのが楽しみです。皆さんの意見をたくさん聞かせてください。
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