主将・高橋はな、10番・塩越柚歩が振り返る初戦の勝利。次節の韓国戦でも「気持ちからぶつかっていく姿を」|E-1サッカー選手権2025
E-1サッカー選手権2025の初陣となったチャイニーズ・タイペイ戦を、4-0の勝利で飾った女子日本代表。試合翌日の7月10日、チームを牽引するキャプテンの高橋はなと、10番を背負う塩越柚歩が、U-NEXT独占インタビューに応じてくれた。初戦の勝利とゴールシーン、現在のチームの雰囲気、そして次節“日韓戦”への意気込みを語る。
故郷ブラジルの田舎で牛の乳搾りをしていた少年が、今では世界最高峰のクラブでまばゆい輝きを放っている。2024年の夏にマンチェスター・Cへ加わったサヴィーニョは、プレミアリーグ最初のシーズンで29試合に出場し、1ゴール8アシストの成績を収めた。
16歳でプロデビュー、18歳でヨーロッパへ渡り、20歳でマンチェスター・Cへ。その劇的なキャリアの裏には、どんな物語が隠されているのか。恩師グアルディオラ監督からの運命的な電話、そしてプレッシャーを力に変える独自の哲学について、急成長を遂げる若きアタッカーがその軌跡と素顔を語る。
──マンチェスターに来てからこれまでは、あなたにとってどのような経験でしたか?
サヴィーニョ:僕にとっては本当に素晴らしい経験になっています。たとえチームが良い状況ではないとしても、マンチェスター・Cでプレーすることは夢の一つだったからです。僕はここにいるため、プレミアリーグでプレーするために選ばれました。本当に幸せです。シティの力になりたいですし、もっともっと適応して、ピッチの中でチームメイトを助けられるようになりたいと思っています。
──まだブラジルにいた小さな頃のあなたは、いつか今日いる場所にたどり着くと想像していましたか?
サヴィーニョ:正直に言うと、想像もしていませんでした。16歳でプロデビューし、18歳でヨーロッパへ渡りました。その2年後には、マンチェスター・Cにやって来たのです。ですから、ただ神に感謝するしかありません。本当に物事が速く進みましたが、想像はしていませんでしたね。
──あなたのルーツであるサン・マテウスでの子供時代は、どのようなものでしたか?
サヴィーニョ:僕が経験してきたこと、すべてを誇りに思っています。あの街を出られたこと、家族がそこの出身であることをとても嬉しく感じていますよ。家族に再会するのはいつだって待ち遠しいですし、とても恋しいです。
──当時はどんな生活を?サッカーをしたり、学校に行ったり?
サヴィーニョ:何でもやっていましたね。もちろん、サッカーもです。毎日午後4時か5時には、地元の友達とサッカーをする生活でした。夜、暗くなるまでプレーしていましたよ。あとは馬に乗ったり、牛の乳搾りをしたり、叔父たちを手伝うのも大好きでした。
──叔父さんのお手伝い、ですか。
サヴィーニョ:叔父を手伝うために、かなり朝早く起きていました。子ども時代は良い思い出ですし、自分の過去について話すことにためらいも恥ずかしさもありません。休暇で帰った時には、また同じことをしたいという意欲も湧いてきます。
──1日のスケジュールはどのような感じだったのでしょう?
サヴィーニョ:叔父に「お祭りや馬のイベントに行きたいなら、明日の朝は早く起きて手伝えよ」と言われるんです。牛がたくさんいたので。それで「明日は朝5時、いや4時半には仕事を始めるぞ」と。でもすごく眠いし、起きるには寒すぎて…。すると時々、叔父が火をつけたロウソクを持ってきて、ろうを僕の足に垂らして起こすんですよ(笑)。
──すごい起こし方ですね。
サヴィーニョ:その場で目は覚めるのですが、彼に腹を立てているので、牛舎にいる2時間、お互いにまったく口をききませんでした。仕事を終えて、また寝に戻ることだけを考えていましたね(笑)。
でも、叔父は最高です。今でも休暇で田舎に帰ると、30日間ずっと滞在して、小さい頃にやっていたことを全部やります。馬にも乗りますよ。家族は怪我を心配していますが、僕も一人の人間ですから、楽しまないと。
──あなたのキャリアを支えてきた家族は、どんな存在ですか?
サヴィーニョ:家族は文字通り「すべて」です。パンデミックの影響で2年間会えなかったこともありましたが、僕が一番恋しいのは、故郷で過ごした家族との日々です。今でも地元に設置したカメラの映像を携帯で見ては、「あそこに帰りたい」と心から思います。
サッカー選手であることは多くの犠牲を伴う、とても難しい職業です。だからこそ、家族と一緒にいられる時間は、何よりも重要なんです。
──地元のサッカー仲間とは今も?
サヴィーニョ:はい、もちろんです。友達やいとこたちと、7対7くらいで、竹で作ったゴールのある小さなピッチで、毎日泥まみれになりながらプレーしていました。彼らは僕が今シティにいるなんて信じられないみたいで、ユニフォームをねだってきますよ(笑)。僕も帰省したら、必ず彼らに会いたい。ただ、今はもう怪我が怖いので、故郷でサッカーをすることだけはしませんが。
──その田舎での遊びのサッカーから、どのようにしてプロへの道が開けていったのですか?
サヴィーニョ:周囲の人たちは、僕に才能があると言ってくれていました。いつも年上の人たちの中でプレーして、少し目立っていたようです。その話が母の耳に入り、夢を追い求めてヴィトーリアという街に移り住むことになりました。大好きな地元を離れるのはとても辛くて、たくさん泣きましたね。
──ヴィトーリアでは、どのようにキャリアがスタートしたのですか?
サヴィーニョ:6歳か7歳の頃でしたね。街に着いたその日に、荷物を置くのもそこそこに自転車でビーチへ向かったんです。すると、子供たちがビーチサッカーをしていて。「入れてもらえませんか?」と聞いたら、その場で「入れよ、プレーしていいぞ」と言ってもらえて、すぐに気に入ってもらえた。そこにいた人が通常のサッカースクールも運営していて、僕はビーチとピッチの両方でプレーすることになりました。砂浜でのプレーは難しくてすごく疲れましたが、今の僕に役立つ特性をたくさんもたらしてくれました。
──そこからアトレチコ・ミネイロに入団するのですね。
サヴィーニョ:ピッチでプレーし始めると、周りは僕のことを本当に気に入ってくれたようで、スクールの月謝も免除になりました。プレーと練習に集中できて、本当に嬉しかったです。
ある日、サンタクルスというチームの一員として、アトレチコ・ミネイロと対戦する機会がありました。僕は2004年生まれなのに、2001年や2002年生まれの選手たちの中でプレーしていた。そこで、対戦相手のアトレチコが僕に興味を持ってくれたんです。「また戻ってこい」と言われ、すぐに入団を決めました。
──アトレチコ・ミネイロでは10歳から18歳まで過ごし、16歳でプロデビュー。素晴らしいキャリアです。
サヴィーニョ:アトレチコは大好きなクラブで、たくさんのことを経験した場所です。16歳でのプロデビューは本当に嬉しかった。デビュー戦(アトレチコ・ゴイアニエンセ戦)は15分間の出場でしたが、人生で一番疲れた試合でしたね。緊張で足も心臓もへとへとでした(笑)。
ただプロの世界は厳しく、クーカ監督の時代には高給のスター選手が優先され、継続的な出場機会は得られませんでした。もっとプレーして、サポーターの記憶に残る選手になりたかったという想いはあります。
──その後、ヨーロッパへ渡ります。PSVアイントホーフェンアイントホーフェン(オランダ)での経験はどうでしたか?
サヴィーニョ:ヨーロッパでのスタートも難しかったです。PSVアイントホーフェンアイントホーフェンに行ったことに後悔はありませんが、寒さや言葉の壁があり、正直苦しめられました。でも、シャビ・シモンズをはじめ、たくさんの友人にも出会え、貴重な経験でした。
──そして、あなたの人生の転機となるジローナ(スペイン)への移籍が決まります。
サヴィーニョ:U-20ワールドカップの前に、代理人から「この大会は君にとって非常に重要だ」と言われていました。PSVアイントホーフェンでは1年間コンスタントにプレーしていなかったので、僕は「絶対に良いプレーをする」と妻に誓い、スペインのチームでプレーすることを強く望んでいました。
そんな時、PSVアイントホーフェンからローン延長のオファーが来て心が揺れたのですが、妻が「スペインに行こうよ」と背中を押してくれたんです。彼女の助けは大きかったですね。結果的に、ジローナが僕の人生を大きく変えてくれました。
──ジローナでは加入直後から大活躍でした。なぜ、あれほど上手くいったのでしょう?
サヴィーニョ:ジローナが僕をシティに導いてくれたんです。チームメイト、スタッフ、監督、そのすべてが僕に自信を与えてくれました。トレーニング初日に「なんだこのクオリティは!?」と衝撃を受けましたし、ミチェル監督からは「シーズン8ゴール10アシスト」という具体的な目標も与えられました。
サヴィーニョ:すべてが完璧に噛み合った、最高の時間でした。お別れの挨拶もできなかったのが心残りですが、もししていたら大泣きしていたでしょうね。
──マンチェスター・Cがあなたに興味を持っていると初めて聞いたのはいつですか?
サヴィーニョ:コパ・アメリカ出場中に、代理人から「グアルディオラ監督が君に電話をしたがっている」と連絡がありました。「参ったな」と思いましたよ(笑)。彼から直接、自信を与えてくれる言葉をもらい、チームに来てほしいと言われました。でも、僕はその場で「もう少しだけ考えさせてください」と答えてしまったんです。
──なんと!
サヴィーニョ:あとで代表チームの先輩であるダニーロ(元マンチェスター・C所属)に相談したら、「冗談だろ?シティは頂点だぞ。お前は19歳で頂点に立つんだ」と呆れられました。その言葉で目が覚めて、すぐに「行きます」と決意を固めました。代理人には「なんで考えるなんて言ったんだ」と怒られましたけどね(笑)。
──シティでの日々は、あなたにとってどんな時間になっていますか?
サヴィーニョ:最高の形でチームに迎えてもらえたと感じています。ペップ監督からも、多くを学んでいますよ。ジローナ時代のミチェル監督と同様に、彼も僕にゴールや結果を強く求めてくれます。ストライカーだけでなく、僕たちアタッカー陣全員がゴールを決めなければならない。そのために日々シュート練習に励んでいます。
──待望のプレミアリーグ初ゴールを決めたのは、第19節のレスター戦でした。あの瞬間は?
サヴィーニョ:安心しましたね。それまで「25試合0ゴール」などと批判されることもありましたが、それに影響されたことはありませんでした。ただ、もっと自分に厳しく、ゴールへの意欲を高めるきっかけにはなっていたんです。
レスター戦でこぼれ球に走り込んだ時、僕はもうゴールを決めると確信していました。すごく自信があったんです。娘に捧げる初ゴール、最高でした。
──アーリング・ハーランドとの連携も素晴らしいですね。
サヴィーニョ:彼の動きは、アシストする側にとって非常にわかりやすいんです。だから、ボールを持っている選手は、彼に“友情のパス”を送るだけでいい。ただクロスを上げるのではなく、「さあ、決めてくれ」という仲間としての思いを込めたパスです。
──スター選手たちとプレーすることは、あなたにとってどんな意味を持ちますか?
サヴィーニョ:彼らに直接言ったことはありませんが、彼らが僕にとってどれほど重要か…。ついこの間まで、僕はビデオゲームの中で彼らを操作していたんですよ。彼らがチャンピオンズリーグを戦っているのをテレビで観ていた僕が、今、彼らと一緒にここにいる。信じられないことです。
──背番号26番を選んだのは、マンチェスター・Cのレジェンドであるリヤド・マフレズ選手の影響ですか?
サヴィーニョ:はい、そうです。彼は僕と同じサイドでプレーする、ずっと手本にしてきた選手でした。もちろん、彼と比較されるのは好きではありません。マフレズにはマフレズの、僕には僕の良さがありますから。
──最後に、あなた自身の哲学について聞かせてください。いつか「自分は偉大な選手だ」と実感する日が来ると思いますか?
サヴィーニョ:正直に言うと、その実感は訪れてほしくないものの一つかもしれません。なぜなら、僕はこれからも、一人の人間として生きていくことを大事にしたいからです。自分が「偉大な選手だ」と考え始めると、責任が重くなり、プレーの軽やかさが失われてしまうと思うんです。“まだ実感が湧いていない若者”であることこそが、僕の強みなのかもしれません。
E-1サッカー選手権2025の初陣となったチャイニーズ・タイペイ戦を、4-0の勝利で飾った女子日本代表。試合翌日の7月10日、チームを牽引するキャプテンの高橋はなと、10番を背負う塩越柚歩が、U-NEXT独占インタビューに応じてくれた。初戦の勝利とゴールシーン、現在のチームの雰囲気、そして次節“日韓戦”への意気込みを語る。
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