2024年は年始から小説、映像作品は話題に事欠かない名作が目白押しです。
今回は人気作家による最新作、人気作の続編、そして芥川賞の話題作、さらにドラマと映画を一作ずつご紹介します。
『夜は短し歩けよ乙女』、『有頂天家族』などで知られる作家・森見登美彦の待望の新作。前作『四畳半タイムマシンブルース』から数えると約四年ぶりです。
今作の主人公はかの名探偵シャーロック・ホームズとその相棒ワトソン。ただホームズは得意の名推理で謎を解き明かすのではありません。なんと彼はスランプの真っ只中なのです。お得意の推理は一向に冴え渡らず、ワトソンはなんとか彼を救ってやりたいと手を尽くしますが、肝心のホームズはただぐうたらし、言い訳を弄するばかり。挙げ句の果てに、本来はホームズの宿敵となるはずの犯罪界のナポレオンことモリアーティ教授までも自らの知性に衰えを感じ、ホームズと傷を舐め合う仲に陥ってしまいます。
そんな彼らが集うのが、鴨川の脇にビッグベンが聳えるという、京都とロンドンが融合したかのような摩訶不思議な街ヴィクトリア朝京都。
そんな不思議な世界を舞台に、果たしてホームズはスランプから脱出できるのか!?
ちなみに、ホームズについての知識はなくても問題なく楽しめますが、ホームズに興味を持たれた方には、北原尚彦『初歩からのシャーロック・ホームズ』(中公新書ラクレ)をお勧めします。
『成瀬は天下を取りにいく』という作品をご存知でしょうか。
2023年3月に刊行され、現在の発行部数は14万部。今年の本屋大賞にもノミネートされました。
滋賀県大津市に住む「成瀬あかり」と、彼女を取り巻く人々の物語で、成瀬の際立った個性と歯切れの良いストーリーが特徴です。
成瀬はマイペースでこだわりが強く、ですが同時に優しく、そして賢い。
第一話では中学二年生の成瀬が、コロナ禍で閉店することになった近所のデパートに、閉店まで毎日通い詰めるという話です。全く奇怪な行動です。
よくある物語ですと、こんな風に変わった行動をするからにはそれ相応の理由があり、物語の最後にそれが明かされるものです。
しかし、ネタバレをしてしまいましょう。それらしい隠された理由は明かされるものの、はっきりとこれという理由が明示されないのです!!
成瀬シリーズの魅力はここにあります。安易なカタルシスで安心させてくれない。型にはまっているようではまっていない。
それは成瀬というキャラクターにも顕著です。歯に衣着せぬ物言いで、自分の信念を持ち、我が道を進む人物。(M-1グランプリに出場したり、髪の伸びる速度を正確にはかるために坊主にしたり、どれも魅力的です。)
そう聞くと、成瀬って頑固で傍若無人で配慮がないような人物かと思う人もいるかもしれません。ですが、成瀬はびっくりするくらい「肯定」の人物です。自分に理解できることと理解できないことを綺麗に分けて、理解できないところは潔く引く。
成瀬が人気になった秘密はこんなところにあるのかもと思います。
そして、早くもその続編となる『成瀬は信じた道をいく』が2024年1月に刊行されました。今作は、成瀬が高校三年生となって京都大学の受験を控えているところから、大学生になってバイトやびわ湖大津観光大使として活躍するまでを描いています。
前作よりも成瀬がパワーアップして帰ってきた!……というのは正確ではないでしょう。なぜなら成瀬はぶれていないから。前作から成瀬はほとんど完成されています。もちろん十代の若者らしい成長や葛藤はあるものの、芯は変わっていません。
では何が変化しているかといえば、周りの人間なのです。父親、友人、他者、社会など、成瀬を取り巻く状況がどんどん変化していきます。
成瀬は定数としてドンと構えていて、彼女を取り巻く人々や環境が変数となります。この変化が見どころです。成瀬を好きになる男性はどんな人?成瀬がSNSを始めたら?クレーマーが成瀬のバイト先に現れたら?
そんなワクワクはしっかり満たされます。それも成瀬を見つめる視点を巧妙に変えながら。
この巻から読んでもしっかり楽しめるのでご安心を。
第170回芥川賞に輝いた作品。
ずいぶんとニュースに取り上げられましたが、作者が本作の執筆に際して生成AIを用いていたことばかりが紹介され、しかもそれがちょっとズレた議論を呼んでいますが、皮肉にも本書が描いているのは、そのようなコミュニケーション不全です。
象徴的なのは書き出しの一節。
バベルの塔の再現。シンパシータワートーキョーの建設は、やがて我々の言葉を乱し、世界をばらばらにする。ただしこの混乱は、建築技術の進歩によって傲慢になった人間が天に近付こうとして、神の怒りに触れたせいじゃない。各々の勝手な感性で言葉を濫用し、捏造し、拡大し、排除した、その当然の帰結として、互いの言っていることがわからなくなる。喋った先から言葉はすべて、他人には理解不能な独り言になる。独り言が世界を席巻する。大独り言時代の到来。
東京のど真ん中(新宿御苑)に、美しく快適な刑務所が建てられます。その名は「シンパシータワートーキョー」。同作の世界では、犯罪者は、憎むべき悪しき存在ではなく、様々な社会的な要因から図らずも犯罪に手を染めてしまった憐れむべき存在「ホモ・ミゼラビリス」として丁重に扱うべきという議論が巻き起こっています。
そうした思想からシンパシータワートーキョーが建築されることになりました。ですが一方で反対の声も強く、両派の間には根深い対立が生じています。やがて、塔を設計した建築家の女性・牧名は、その責任を問われ、強いバッシングやキャンセルに合うようになってしまうのです。
この物語の関心は「器と中身」です。
ちょっと学問的な話をします。
スイスの言語学者ソシュールという人物は、言語についてシニフィアンとシニフィエという概念を提唱しました。
簡単に言えば、「言葉」がシニフィアン、「その言葉によって差し示されるもの」がシニフィエです。
具体的には、「ねこ」という言葉はシニフィアンで、その「ねこ」によって示される「ニャーと鳴く動物」のことをシニフィアン、というわけです。
では、なぜこんな風に言葉と指し示すものを分けるのでしょう?
それは、対象と言葉がワンセットではないからです。
例えば、四足歩行でニャーと動物と一口に言っても、言語によって、ねこ、cat、chatなどさまざまです。しかも、さらにそれらの言葉も厳密には全く同じ意味ではありません。「ねこ」という言葉からは「猫の手も借りたい」とか「猫の額ほどの土地」のような慣用句が作れますが、catには同じような用法はありません。
つまり、指し示される対象(シニフィエ)とそれにつける言葉(シニフィアン)は、言語によってかなり自由です。
そしてここで注目すべきは、やがてシニフィアンがシニフィエを離れて、独自の用法や存在感を持ち始める点です。例えば、「叩く」という言葉はもともと手などを用いて誰かを殴打する行為ですが、今ではネット上で誰かを攻撃する行為もそのように表現します。これは言葉が自ら用法を広げていった結果です。
つまり、器(シニフィアン)が新しい中身(シニフィエ)を生み出すのです。(今の例でいれば、「叩く」という器が、「ネットで誰かを攻撃する」という中身を増やした。)
このような器の一人歩きが様々な不幸を生んでいます。
例えば、「言葉狩り」としばしば揶揄される、過度な言葉の制限はその代表的なものであり、本書で描かれる「ホモ・ミゼラビリス」などもそれに含まれています。
その器と中身の関係は、建築という形をとって読者に突きつけられる。主人公の塔に対する思いを引用しましょう。
とにかく、私が考えなくてはいけないのは器なのだ。器の形状、構造、素材、予算、工期。器の中にどんな中身を入れ、思想を込めるかを決めるのは他人の仕事なのだ。社会の問題なのだ。私は建築家なのだ。放っておけばいい。
建築という器には、その建築に込められた思想という中身が存在しています。それらは分かち難く結びついているものの、今回の例では先にコンセプトが決まっているため、建築家はとやかく言うことができません。(もちろん、それをわかった上で申し込んでいるので、全く責任がないわけではありません。)
ですが、世間はそうとは捉えず、中身(思想)の責任は、器を作った人間(建築)にあると早合点します。ちょうど差別的な言葉さえ排除すれば、差別がなくなると妄信するようなものです。
主人公は幼い頃から、器と中身の対立に葛藤していたようです。
主人公は女性の建築家であり、幼い頃から数学が得意で、数学オリンピックで銅メダルを獲得しました。
ですが、女子の部門だったら金だったのに、全性別の部に出場したから銅になってしまったのだと言います。その理由を語っている箇所を引用します。
私が負けたのは男子より数学力が劣っていたからじゃない。『女子』じゃなく『全性別』の方に出場する権利を勝ち取るために、脳みそと時間を吸い取られたせいなの。本当に、これは負け惜しみじゃなくて。大人たちを納得させるには、数学の公式より先に言語を使いこなせるようにならないといけなかったんだ。男には男用の言語を、女には女用の言語を。十四歳の数学少女には酷な話でしょ?『全性別』に出ても、みんなが私に言葉のシャワーを浴びせてきて数式に集中できなかった。女の子なのにすごいね。女の子なのにかわいそうだね。女子なのにたいしたものだ。女子なのに生意気だ。
女性というレッテルで苦労したことを語っていますが、特定の属性に勝手に意味を付与するのも「器と中身」と全く同じ構図でしょう。
つまり、本書にはさまざまな差別や意志疎通の齟齬を構造から訴えかける豊穣な問題提起に満ち溢れています。
AIによる生成などだけにとどめず、ぜひ読んでみてください。特に著者の言語センスが素晴らしく、音読することを強く強くオススメします!
大河ドラマ「光る君へ」が好調です。第一話の視聴率は、世帯視聴率が20.6%(関東)18.8%(関西)、個人視聴率が12.3%(関東)11.1%(関西)。(ビデオリサーチ調べ)配信に至っては、NHKプラスの歴代最高記録を樹立したそうです。
主人公は、日本文学の最高傑作たる『源氏物語』の作者の紫式部(演:吉高由里子)。
彼女が生きた平安時代中期といえば、世界史的にみても多彩な文学が花開いた黎明期です。『源氏物語』をはじめ、『蜻蛉日記』、『落窪物語』、『枕草子』、『和泉式部日記』、そして後に「百人一首」にも収録されることになる数々の和歌集が花開きました。しかもその担い手の多くは女性なのです。千年も前にこれだけ多様な女性作家がいたことは、世界的に稀です。
その秘密は当時の政治体制にあります。摂関政治と呼ばれる政治体制が文化を育むことを促進し、文化が政治を描くことで厚みを持ちました。その背骨となったのは政治的な敵対や愛憎といった人間らしい感情の本流です。
「光る君へ」では、政治、文化、人間関係が複雑に入り組んだ平安時代をよく描いています。政治が文学を盛り上げ、文学が政治をうごかし、愛や嫉妬が文学の材料となる。
大河ドラマとしては、大規模な戦争がなく、中心に恋愛を据えているという、珍しい構成です。
しかし、戦争とは別種の緊迫感あふれる権謀術数、そして文学作品での火花の散らし合いは緊迫感に溢れており、それらが人間の繊細な心を浮かび上がらせます。
Twitter(現X)では、専門家を含む有志の方による考察や解説も充実しているため、今からでも遅くありません。
ぜひ平安の沼にはまってください。
オススメアカウント
たらればさん:https://x.com/tarareba722
川村裕子さん:https://x.com/kagekageko
三宅香帆さん:https://x.com/m3_myk
ヨルゴス・ランティモス監督、エマ・ストーン主演の話題作。アラスター・グレイによる同名の小説が原作となっており、高橋和久による翻訳が早川書房から刊行されています。
主人公は、天才外科医による手術によって、幼児の脳みそを移植された若き女性ベラ。
彼女は成熟した美しさと未成熟の知能によって、男たちの欲望の対象となってしまいます。はじめこそ男たちに翻弄されるベラですが、やがて自らの欲望や信念、優しさや憎悪を解き放ち、果敢に成長を遂げ、最後には自らの積極的な意志をもって娼婦として身を立てるようになるのです。
幼児のように、食べることも喋ることもままならなかったベラが、性を覚え、正義や平等、不条理を知るにつれて、その所作が洗練され、戦闘性を増していく様は圧巻。特に性については驚くほどに奔放ですが、舞台となっている19世紀後半のイギリスは、女性が性的欲望を持つことが許されていなかったため、その時代にあって性の衝動に身を委ねることは、反逆に他なりません。
映像も見事で、彼女が訪れるポルトガルやフランスなどの街並み、豪華客船はとても美麗ですし、ベラが身につける衣装についても徹底的な議論やリサーチのすえに生み出されたといいます。
はじめは白黒で描かれる世界が、物語の進行に合わせて彩度を増し、描かれる景色も多彩になっていく様に、我々はベラのまなざしを一緒に感じ取ることができるでしょう。
ベラの何者にもとらわれない怒りと愛に満ちた生き様に度肝を抜かれてください!
小説『ここはすべての夜明けまえ』『宇宙人のためのせんりゅう入門』、ドラマ『虎に翼』について、書評家スケザネさんがこれぞという作品をご紹介します。
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映画『ハリー・ポッター』はもちろん、『ファンタスティック・ビースト』を含む「魔法ワールド」、そして原作小説も含めて、その魅力をおさらいします。