本作は第十一回ハヤカワSFコンテスト特別賞を受賞し、発売前から積極的な宣伝がなされるなど、鳴物入りで世に送り出された。
実際、人気ラジオ番組「星野源のオールナイトニッポン」で取り上げられたり、各所で書評も出て、更には三島由紀夫賞の候補にノミネートされるなど、その反響は大きい。
ではどんな作品なのか、紹介していこう。
物語の舞台は2123年の九州の山奥。主人公の「わたし」は、融合手術と呼ばれる、身体が老化しなくなる施術を受けた女性で、現在120歳を超えている(1997年生まれ)。
そんな「わたし」が綴る、これまでの生涯、特に家族の思い出を振り返る手記が、この物語の軸になる。
「わたし」には、大きく年の離れた兄と二人の姉がいた。だが、母親が「わたし」を出産した際に亡くなったことで、兄たちは「わたし」を恨み、辛く当たり続けていた。さらに父親からも虐待を加えられ、主人公は自らの身体に対する嫌悪感を強め、やがて死にたいと強く願うようになる。そこで、当時合法になっていた安楽死を希望するのだが、父親から強い反発にあう。(なぜ父親が強硬に反対するかは、徐々に明かされていく。)そこで、医師と相談した結果、身体的苦痛から逃れるために、融合手術を提案されたのだった。
融合手術は身体をマシン化する技術で、食事をとる必要もなくなり、生殖にまつわる機能もなくなるし、記憶や感情も機械化に近づくと言われている。
そして手術は無事に成功し、「わたし」は二十五歳の身体から歳を取らなくなったのだった。
以上がこの物語の大枠だ。機械となった「わたし」を通して、(昔ながらの)人間や、「わたし」よりも更に機械化が進んだ人類が描かれ、人間と機械の感性や身体的限界が浮き彫りにされる。
そういう意味では、人間が機械の助けを借りて進化を果たす「ポストヒューマン」の系譜にこの作品を位置付けてもいいだろう。
実際、「わたし」はボーカロイドを好んだり、将棋プログラムと人間の棋士が対戦する電王戦についての言及があったりと、人間と知能の臨界にまつわる現象が意識的に取り上げられている。
だが、それは単なる進歩主義によってもたらされたものではない。
というのも、主人公は手術を受けてよかった理由として「ちゃんと人間じゃなくなれたこと!」を挙げ、特に生理が来なくなったことを喜んでいる。
それを突き詰めると、主人公が子供を産む機能を備えた身体に対する嫌悪感に行き着くようだ。
女のひとはさいしょから、胎児のころから卵子のもとがからだのなかに存在しているみたいなことをおもいだして、さいしょからそんなふうにせっ計されてるんだってことをおもいだして吐くでもなく泣くでもなくいままででいちばんしずかなきもちになり(後略)
ポストヒューマン(人造人間)というと、どうしてもすばらしい科学技術を駆使して、超人的な「身体」を手にいれるということを考えてしまうが、「わたし」がそれを希求したのは止むに止まれぬ事情であり、そして生物として定められた役割に対する絶望感からだった。
「わたし」の独白によって、女性(あるいは人間全体)が身体に刻まれた生物的な機能、社会的な抑圧に気付かされるだろう。
そして物語を読み進めていくことで、ただ身体の機械化を理想化だけしているわけではないことも明らかにされる。
この慎重な比較が見事なので、ぜひ実際に味わってほしい。
最後に文体について補足しておきたい。
さきほど、作品の一部を引用したが、ひらがなの多用された独特の文体に気が付かれただろう。
本書は『アルジャーノンに花束を』を思わせるひらがなを中心とした「わたし」の筆による文章だが、それは知能の問題ではなく、漢字は「画すうがおおくてつかれなくともめんどくさいから」、ひらがなを多く使っている。
考えてみれば、漢字とひらがな(カタカナ)は、画数以外にも表意・表音という点でも大きく違う。つまり、漢字はその文字が意味を表す。例えば、「犬」という字が、まさに耳を立てた犬を模しているように。
一方のひらがな(カタカナ)は、そもそも漢字を変形させたという成り立ちからして、文字自体に意味はない。あくまで音(どう発音するか)を示しているだけだ。
つまり、漢字をあまりに使わないとなると、文字に刻まれた意味を振り捨てることになる。
こうした選択にも、歴史的に刻まれた意味や役割を振り払おうとする「わたし」の意志があるのではないだろうか。
まずは次の川柳を読んでほしい。
寿司として流星群は許せない
良い寿司は関節がよく曲がるんだ
いけにえにフリルがあって恥ずかしい
さて、どうだろうか。
頭の上にクエスチョンマークがいっぱい浮かんでいるかもしれない。
大丈夫、多分そのほうが正常。
実はいま川柳が面白い。
とは言ったものの、「川柳ってなに?」という声が聞こえてきそうだ。
川柳とは、五七五でできている文芸だ。
よく似た存在に俳句がいるが、俳句とはちょっと違う。
大きい違いは季語(季節にまつわる言葉)の有無。俳句には季語が必要だが、川柳にはそれが要らない。
「あー!昔、サラリーマン川柳っていうのを聞いたことがある!」
まさにそれ!
サラリーマン川柳は、会社とか家庭の悲哀をちょっと上手い言葉遊びで詠むという企画。(※「サラリーマン川柳」は、サラリーマン以外の人や事象も含めたいと、2022年から「サラっと一句! わたしの川柳コンクール」に改称された。)
正解!その川柳である。
「いやいや、それと比べると、さっきあげていたやつはずいぶんと違うよ」
たしかにおっしゃる通りだ。サラ川(サラリーマン川柳)のイメージで川柳を考えると、ずいぶんと面食らってしまうだろう。
僕が今回ご紹介したいのは「現代川柳」である。
川柳とは江戸時代から始まった言葉の芸術である。俳句を詠む俳人、短歌を詠む歌人がいるように、川柳を詠む川柳人(または柳人)が存在する。
そうした人々の多くが手掛けている川柳を「現代川柳」と呼ぶ。(川柳にも様々な派閥があるので、一括りにしてはいけない。)
『宇宙人のためのせんりゅう入門』は、Z世代の川柳人として名高い、暮田真名が現代川柳の魅力、楽しむ心構えを、宇宙人との対話という形式で綴った、全く新しい川柳の入門書だ。
この本の最も革新的で、とにかく感動した点はずばり「意味を求めすぎないこと」!!!!
この一点を理解してもらうためだけに、この本を強く強くオススメしたい!
ここから詳しく説明していくが、そんな風に意味を求めなくていい、などと言うと、「言葉の芸術である以上、意味を理解するのは当然なんじゃない?」という疑問があるだろう。
その通り。
だが、少し考えてみてほしい。現代は意味に溢れすぎてはいないだろうか。
ちょっとした発言にも文脈や意味をたくさんつけられ、何かをなすにも、その意味や効用を説明させられる。あるいは、あるものの意味を理解することを強いられる。
当然、言葉の芸術である文学にも意味は求められがちだ。例えば、小説であれば人生の妙味みたいなものを描きがちだし、短歌では自分の人生が詠まれることが多い。
だが、暮田は、川柳で書きたいことはないとはっきりと断言している。
そして作品を読むにあたっても、「わからない、かつおもしろい」という詩を高く評価しているのだ。
例えば冒頭に挙げた暮田の句。
「良い寿司は関節がよく曲がるんだ」「いけにえにフリルがあって恥ずかしい」など、意味を考えれば考えるほどよくわからない。
寿司に関節なんてないし、いけにえにフリルがあるってのはいったいどういうこと?いけにえになる人の服にフリルがついているの?とか。
考えれば考えるほどツボにハマる。
だが、もっと気楽になろう。
良いフィギュアって関節がよく曲がるけど、良い寿司もそうなのかも、いやでも寿司に関節ってなんだよ、うけるなー
いけにえという深刻な場面なのにフリルがあったら恥ずかしいかも、いや恥ずかしいとか言っている場合じゃないし(笑)でも語感が気持ちいいなー
とかとか
それくらいでいい。
世の中が意味に溢れているからこそ、意味ではなく、なんとなくの「感じ」も尊重される領域があってもいい。
もしイメージしづらければ、ラップに近いところがあると思ってもらえればいい。
暮田は自らが、意味を二の次にする理由として、自分が「ボカロ世代」であることをあげている。
暮田が好んで聞いていたボカロ曲は、「意味はよくわからないけどかっこいい並んで」いて、「言葉の意味が取れるかどうかって正直どうでもいい」と感じるようになったのだという。
「人ではないもの」が、「人間の自然な感情」以外のものを歌っている。ボーカロイドが持つある種の「不自然さ」がわたしにとっては魅力的だったんだよね。
本書で暮田が語った言葉だ。
先述した『ここはすべての夜明けまえ』の「わたし」がボーカロイドを好み、意味をまとった文字である漢字を拒否していた様子と近しいものを感じる。
そして、「わたし」にしろ、暮田にしろ、それはただ野放図に意味を放棄したわけではないことも重要だ。
本書を紐解けばよくわかるように、意味を手放すことは反逆であり、逆襲の機会を伺うシェルターとしても機能する。
日常に溢れた意味の地獄から一旦脱出して、違う地平で言葉を使えるなんて、なんと自由だろう!
詩を読むのには苦手だという人が多いかもしれないが、本書はその心構えから教えてくれる稀有な入門書であり、更に意味に溢れた現代社会から隔絶された無意味の楽園へのパスポートでもある。
ぜひ意味を脱ぎ捨ててほしい。
新しいNHKの朝ドラが始まった。
主人公のモデルは、女性初の弁護士、裁判官となった三淵嘉子。
台湾銀行シンガポール支店に勤務していた父・武藤貞雄と母・ノブのもと、大正三年シンガポールにて生まれる。その後、世界中を渡ることで進歩的な思想を持っていた父親の影響もあって、法律家を志す。
法律のお仕事というのは、御国の決まりを守って、御国を、よりよくするお仕事でしょう。たとえば、辛い暮らしをしている方々を助ける決まりを作れば、国中のたくさんの方々が救われます。
私は、法律家になります。
(長尾剛『三淵嘉子』(朝日文庫、2024年)
昭和七年、新設間もない明治大学専門部女子部法科に入学。
そして昭和十三年には高等試験司法科試験に合格し、翌々年についに女性初の弁護士となる。
苛烈になった第二次世界大戦を受けての福島県への疎開を経て、戦後には判事となる。
彼女が判事として知られるのは、女性だからというだけではなく、日本の裁判所で初めて「原爆投下は国際法違反」と述べたような心ある判決によるところが大きい。
さて、ドラマ「虎に翼」の主人公である、猪爪寅子(伊藤沙莉)は、三淵に比べてより一層、女性という性に貼り付けられた役割に対して懐疑的だ。
両親から次々にお見合いさせられることに反発したり、ある偶然から法律のもとで女性が男性よりも圧倒的な劣位たる「無能力者」に置かれていることを知ると強く憤慨。ついには法律を学ぶべく、明律大学女子部法科の門を叩くのである。
大学の中では、同じく法律家を志す仲間たちが描かれる。だが、彼女たちは一様にして、社会からの女性蔑視や家庭内での重圧に苦しめられていることがわかる。学内で男子学生から、女性が法律を学んでどうすると嘲笑を受ける様子が描かれるが、現実はこの何倍もひどい状況だったことは想像に難くない。
ここで、ドラマでもキーワードになった無能力者について、説明しておきたい。
ドラマの中で言われる「女性は無能力者」というのは、いわゆる才能とか能力を指すのではなく、法律行為ができないという意味だ。
精神を病んだり、浪費癖があったりすることで、財産の管理能力がないと判断された男性(準禁治産者)と同等の扱いだった。
この背景には、家族単位でひとまとまりになり、男性が家の一切を取り仕切り、女性はそれを支えるべしという思想があった。
だが、すると当然、女性から男性に対する裁判は不利になる。
「虎に翼」でも、日常的に暴力を振るう夫に対して離婚裁判を起こした女性が登場する。
裁判が長引くことで、一向に離婚は成立しない上、せめて母の形見である着物を返してほしいと訴えるが、その着物の所有権は夫にあるために返却されるか危うい。
ところが、なんと下った判決は、夫に着物の引き渡しを命じるものだった。
この判決について、寅子たちの教官は「新しい視点に立った見事な判決」と喝采を送り、「こういった小さな積み重ねが、ゆくゆくは世の中を変えていくんじゃないのかね」と語った。
明治民法では、女性が劣位に置かれ、勝手に役割を固定されていた。
そのような理不尽かつ、女性が法律家になるなんて不可能だと言われる絶望的な時代で、自分たちに降りかかる差別を、一人一人の知性や心、そして連帯によって弾き返していった女性たちがいた。
公式サイトにはダイジェストのあらすじ紹介などが充実しているため、ぜひ活用してほしい。
(参考サイト)
「虎に翼」の“はて?”を解決!「無能力者って何よ~!」
朝ドラ見るるに教えて!第1回 (後編)
小説『シャーロック・ホームズの凱旋』『成瀬は信じた道をいく』のほか、ドラマ『光る君へ』など、書評家スケザネさんがこれぞという作品をご紹介します。
小説『シャーロック・ホームズの凱旋』『成瀬は信じた道をいく』のほか、ドラマ『光る君へ』など、書評家スケザネさんがこれぞという作品をご紹介します。
映画『ハリー・ポッター』はもちろん、『ファンタスティック・ビースト』を含む「魔法ワールド」、そして原作小説も含めて、その魅力をおさらいします。